田舎の生活

「田舎の生活」は1992年4月に発売されたミニアルバム「オーロラになれなかった人のために」に収録されました。

作詞・作曲:草野正宗、編曲:長谷川智樹 with スピッツ

なめらかに澄んだ沢の水を ためらうこともなく流し込み

懐かしく香る午後の風を ぬれた首すじに受けて笑う

野うさぎの走り抜ける様も 笹百合光る花の姿も

夜空にまたたく星の群れも あたり前に僕の目の中に

田舎に暮らしたり滞在したことのある方ならば目の前に情景が鮮明に広がるような、とても生き生きとした表現で、まさに今体感しているかのようですね。

それはきっとここでの表現に、触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚の五感のすべてが使われていて、それがそのような効果を生んでいると思われます。

必ず届くと信じていた幻

言葉にまみれたネガの街は続く

さよなら さよなら 窓の外の君に さよなら言わなきゃ

言葉は頭で考えて発するもので、感覚とは正反対の概念です。現在主人公のいる「街」は先ほどの五感で感じる「田舎の生活」とは正反対のものとして描かれています。

また、「ポジ」は「実像」、「ネガ」は「虚像」ですので、主人公の中で、「実像」と「虚像」が反転した生活を送っている様子がうかがえます。ぼんやりとした虚像(実際の生活)の中で、鮮やかな実像(想像の生活)を求め、それに届くことを信じて生きている。

しかし、求めていたものこそ「虚像」つまり「幻」であることに気づき、あるいは認めざるを得なくなり、今の「ネガの街」こそが自分の生きるべき場所、「実像」であることを悟ります。

それで、「窓の外の君に さよなら言わなきゃ」と続くのですが、マサムネさんの表わす「窓」とは自分の内側と外界との接点ですので、これまで「実像」だと心が求めてきた「君」とはさよならをしなくてはなりません。なぜならそれは、これから「虚像」となるからです。

一番鶏の歌で目覚めて 彼方の山を見てあくびして

頂きの白に思いはせる すべり落ちていく心のしずく

根野菜の泥を洗う君と 縁側に遊ぶ僕らの子供と

うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上

先ほどは五感でしたが、今度はそれに加えて時間の流れについての表現が使われ、また生き生きと鮮明な「田舎の生活」の様子が歌われます。

早朝から夕方までの一日の時間の流れ、そして「頂きの白」から四季の移り変わり、「終わることのない輪廻の上」から世代を超えた時間の流れまでが表現されています。

「心のしずく」と涙が流れる様子が美しく表現されていますね。感情が優先される様子がさらに強調されるようです。

「僕ら」と、ここで先ほどの「君」が具体的に登場します。「君」は田舎の生活を共にし、子供を作り、育て、次の世代へと繋げていく人物だったようです。

あの日のたわごと 銀の箱につめて

さよなら さよなら ネガの街は続く

さよなら さよなら いつの日にか君とまた会えたらいいな

「銀」はその白く光るさまから”純粋・無垢”の印象を与え、そのためカトリック教会では神聖な宗教儀式の道具や鈴が銀で作られました。そこから「あの日のたわごと」は純粋で無垢なものであることが「銀の箱につめる」という言葉で表現されているように思われます。

 

「今の生活は仮のものであり、自分の本当の生活は別の場所にある」と考えることはないでしょうか。

しかし、実際に今送っている生活こそが「本当の生活」です。それに気がつかないと、長い間、虚像の中で、地に足のついていない夢見がちな生活を送ることになります。

どこかで、例え望んだものでなくても現実を受け入れること、それが大人になるということであり、強く生きていくことにもつながります。

 その強さを得た後、主人公は、現実の生活の中で「君」と再び会えるかもしれません。その時には、きっと、お互いに力を分かち合えるパートナーになれることでしょう。

 

「田舎の生活」は、「君」との理想郷での暮らしを夢見ることで何とか「力を得て」虚像の中で「偽物の明日」を繰り返していた主人公が、現実と向き合い、例え「さびついた自由」の中であってもそれを受け入れ、これから現実を強く生きていく決意をした、そして、いつの日にか本当の意味で再び「君」と出会えるようになりたいと望む、不安定ながらも力強い歌詞でした。